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新法・旧法の争い

新法・旧法の争い(しんぽう・きゅうほうのあらそい)とは、中国北宋の中期神宗代から末期徽宗代にかけて起こった政治的な争い。王安石によって新法と呼ばれる改革が行われるが、これに司馬光を初めとする反対者が続出し、長く論争と政権闘争がくり広げられた。その結果、大きな政治的混乱を生み、北宋滅亡の原因と評される。

五代から宋にかけて商業活動が活発化し、平和の回復に伴って地方からの上供も安定するようになった。商業活動から得られる商税・塩・酒の専売などの収入を背景に宋朝は非常に強い経済力を誇った。しかし仁宗のいわゆる慶暦の治(1041年 - 1048年)の時代を頂点として、以下にあげられるような要因によって次第に財政が悪化し、英宗時代に赤字に転落した。
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1038年(宝元2年)にタングートの李元昊が皇帝に即位し、国号を夏(西夏)と称した。これを認めない宋は西夏との間で交戦状態に入った。戦争は長引き、それに乗じて先立っての澶淵の盟で宋と和約を結んでいた遼(当時の国号は「契丹」)が領土割譲を求めてきた。これを受け入れるわけにいかない宋は遼に対して送っていた歳幣の額を増やすことでこれを収め、西夏とも、西夏が宋に対して臣従し、宋から西夏に対して歳賜を送ることで和平を結んだ。

しかし和平が結ばれても国境に配置する兵士を減らせるわけではなく、この維持費が膨大なものとなった。太祖趙匡胤の時に総計40万弱であったのが、仁宗のときに120万を超えており、その維持費だけで5,000万貫に達していた。この頃の歳出が大体9,000万から1億2,000万貫ほどである。

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2009年09月22日 02:00に投稿されたエントリーのページです。

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